あれから20年が経つなんて、時間ってあっという間。
記憶ではコンパートメントの同乗者にイスラエル人がいて、徴兵制のこと、宗教のこと、ジョン・レノンのの歌のような世界がやってくる時が来るのか?なんてことを話していた。
ヴァーラーナシーに到着。行き当たりばったりの旅をする私だけど、コルカタのマザーテレサの家を訪ねること、ヴァーラーナシーでガンジス川を見ることは、必ずやりたいことだった。
念願のヴァーラーナシー!
宿に向かうタクシーに乗り込む。
すると運転手が、
「第3次世界大戦がはじまった」
などと、訳のわからないことを言う。
何かおかしな映画でもみたのだろうか。
宿に到着し、チェックイン。
少し休んでコモンスペースに行くと、西洋人の女の子が泣いていた。
「なんで私の誕生日にこんなことが起きるの?!」
私は何がなんだかわからず、さっき運転手から聞いた話は本当だったのかな、と思った。
取り乱している彼女の周りで、友人たちが帰国する段取りを相談している。
とりあえず町の様子を見てみようと散歩に出かけるも、何か変わったことは感じられない。どころか、ヴァーラーナシーである。人々の自然との一体感のある空気、生と死の境界線がない世界。
町の広場でチャイを飲んでいると、片足のない、目が美しいおじさんが話しかけてきた。彼とはヴァーラーナシー滞在中に何度もチャイを一緒に飲んだ。言葉がわからないけど、何かを話していた。
さて、町を歩いても何も変わった様子はない。ガンジス川の河岸では死体を焼いて煙が上がっているし、死んだ牛が浮かんで流れていく。その川で沐浴する人たちが夕日を浴びて美しい。
2001年当時のネット環境は、今では考えられないものだ。もちろんスマホはない。友人との連絡手段はhotmailだけど、日本語入力ができないから、英語かローマ字だった。時々暇な日本人バックパッカーが、設定をいじって日本語入力可能にしてくれているインターネットカフェもあると、おお!と思ったものだ。ブラウザも日本語対応はしておらず、英語でニュースを読む気力もないし、旅の間は世の中の情報から隔離された状態だった。
日本の社会に馴染めず、ドロップアウトよろしく旅に出ていたような私にはそれがなにより心地よかった。
そんなこんなで、ヴァーラーナシーでは、私はただただ平和に時間を過ごしていた。今でもあの時のことを思い出すと、心がゆったりする。この地球上に同じ時間にあの世界が存在している事実に安心する。
とはいえ、もう20年前。ずいぶんと変わったのかもしれない。
そこに映っていたのは、飛行機がビルに突っ込んでいく映像だった。 飛行機が衝突し崩れていくのを見ながら、彼らは拍手をしていた。
私はこれが第3次世界大戦か、と思いながら、なんとも不思議な気持ちだった。 その後、彼らと食事を共にして普通に過ごす自分についても、今思い出してもフラットな感情しかない。
この世界で起きる出来事はそれほど単純ではない。それでも単純なんだ。
アフガニスタンにいつか行きたい、と思っていたけど、私が生きている間に叶うのかどうか怪しくなってきた。 そこで生きている人たちは、昨日まであった平和な暮らしがあっという間に奪われた。 日本は平和すぎて人事に思えるかもしれないけれど、国と言う視点でなく個々人で見たときには、今、コロナ禍で、昨日まであった平和な暮らしを失った人たちが数多くいるんだと思う。
おそらく、9.11同時多発テロの時、インドで時間を過ごしていたことは、私がいつも曖昧な態度を取ってしまう人間になった原因のひとつかもしれない。この世の中で単純に正しいものとか、正解なんてない。
ただ今そこにある現実に対して、自分が何を感じて、何をしたいのか。
それを考え続けることをやめないで、何を大切にしたいのか。
あらためて、20年前を思いながら。。
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ま、そうして苦労して辿り着いたキングスクロスにて、そして人生初めての海外で泊まった宿がこれ。
確か1軒目は満室で断られて、ここを紹介されたんだっけ。
ルームメートはとても優しくて、初めての外国でちょっとびびっている私と一緒にご飯を食べに行ってくれたりしてね。当時はインターネットがないから、基本的には一期一会の世界。今頃、彼女たちは何をしてるんだろう?
そんな風に順調に思われたキングスクロスの安宿暮らし。でも残念なことに数日でそこを後にする出来事が。
リビングスペースで出会ったニュージーランド人の男の子。確か大勢のバックパッカーがテレビでサッカー観戦してて、そんな中彼が話しかけてきた。少し話してると、ご飯でも食べに行かない?と。若い純粋な私は、ルームメートの女の子とご飯に行くのと同じ感覚で、何の疑問もなく、いいよって。
それでご飯を食べて、確かバーみたいなトコにいって、全然覚えてないけど何かしら会話をして楽しかったのは覚えてる。それから宿に戻って屋上でお茶を飲んで。
そうしたらさ、急に彼は真剣な顔で、キスしてもいいか?と聞いてくるじゃないですかぁ。ブチュっ!て、いいわけがないよぉ。何なんだ、この展開。ちょっと待ってよぉ、私は日本にボーイフレンドがいるし、そんなの無理だよ、ってつたない英語で拒否をするけど引き下がる気配がない。
まだ当時は可愛げのあった幼き私はだんだんと怖じ気づいて、隙をついて逃げだし、走ってドミトリーに駆け込んでドアをガシャン、鍵をかける。彼はドアをドンドンと叩きはじめ、開けろ!と叫んでる。うわ、ちょっとどうしよう。マジで怖いんですけど。
とにかく静かになるまで部屋で縮こまって過ごし、ルームメートに事情を話して、次の早朝に宿をチェックアウト。
今ならね、分かるんだけどね、そういうの。
でもあのときの私は、女の子が食事についていくとかいうことが、男の子に何を思わせるか、なんていうことを想像もしたことが無かったし、その時だってわけが分からず、その後も何度か同じようなことをやらかして、いろいろと学んだのでありました。
高校をかろうじて卒業して、それからバイトでお金を貯めて、ワーホリビザを申請。でもその年に限って、オーストラリア政府はビザをストップしちゃった。信じられないよ。しかも再開するのはいつか分からないっていいだして。それでしばらくビザを待つ羽目になったんだ。後で思えば、このときの待った時間は個人的に良かったということになったけど。
はい、前置きが長くなりましたが、それから無事にビザがとれて、1996年9月、シドニーに旅立ったのでありました。
初めての飛行機、初めての外国。
ソウル経由の大韓航空はガラガラで、飛行機ってあんまり人が乗ってなくて足伸ばして寝れるんだな、という認識が間違っていたということは後で気がつくのだけど。
当時ほとんどのワーホリの人が、ひとまず英語学校とホームステイを決めてから来ていたんだけど、私はそういう基本的なこともすべてすっ飛ばして、とにかく行けばなんとかなるでしょ、ガイドブックだってあるし、と宿さえ決めずに旅立ち。
さてガイドブックによると、シドニーについたら南半球一の繁華街である「キングスクロス」に行けば安い宿がいっぱいあるとのこと。繁華街はなんたるかも当時の純粋無垢な私は全く知らず、まず宿を求めてそのキングスクロス目指してバスに乗り込む。
そして今でも忘れないあの屈辱の出来事が。
空港からキングスクロスに行くバスを見つけて乗り込んだんだけど、どこで降りるか分かんない。外国のバスって、日本みたいに、「次はどこどこです〜」なんて親切に教えてくれない。景色をじっと眺めて、降りたい手前あたりでブザーを押すのが普通。
これは事前に情報として知っていたので、バスに乗り込むとまず運転手に、あらかじめ頭の中に準備していた英語のフレーズで意気揚々と、
「I would like to get off at Kings Cross. Please tell me!」と伝えたんだけど、返してくれる英語がぜーんぜん分からない。何言ってるんだ、このおやじ?
とにかく仕方ないから、運転手のそばにぴったりくっついて、まだまだ?って聞き続ける。もうこの時は心臓バクバクだよ。バスに乗るだけであんなに緊張するなんて、本当にどうかしてるって思うけど、仕方ない。
それにしても、それなりに簡単な英語はがんばって勉強したつもりでいたのに、なんで全く分からないんだろう。ガイドブックがあればなんとかなるなんて思って来ちゃったけど、ちょっとまずい雰囲気。
そういうこうしてるうちキングスクロス近くに来て、運転手が話しかけて来たんだけどまた分からない。私が顔中をハテナマークでいっぱいにしていると、運転手はあきれ顔で、他の乗客に「She doesn’t understand English」って言ってるじゃありませんか。なんでそれだけ分かるのさ、私!悔しい〜。
あとで分かったことは、オーストラリア人の英語は訛ってて、特にあのオヤジの英語は相当に訛ってたってこと。でも、そんなのは何のいいわけにもならない。だって世界を旅するっていうことは、そういう全部もひっくるめて対応しなくちゃなんないだから。
]]>早起きして観ていたテレビ番組は、「早見優のアメリカンキッズ」と「ズームイン朝」。アメリカンキッズでは、プーピーちゃんとガリソン君が早見優と英語で話すんですよ。ちなみにガリソン君はかなりイタイキャラで、納豆をトーストにのせたのなんかが好物で、子供ながらに変な奴っ!でも憎めないって心の中で悪態ついたりしてね。
ズームイン朝は、もちろん、「ウィッキーさん」! まちの人をところ構わずつかまえて、英語で話しかけるあれ。あれ、知らない人がいる? ま、今の時代、どこにでも外国人はいるし珍しくないから、今更どうでもいいんだけど、地方都市に住む幼き私にとっては、英語で話しをするウィッキーさんはすごく憧れだったんだ。
私はこの二つの番組が大好きで毎朝熱心に観ていた。それでいつしか、海外に行くということが人生の目的の一つに組み込まれていくである。ガリソン君、ウィッキーさん、恐るべし。
ここでまっとうな人生を歩むんならば、英語に憧れを持った若者は、勉学に励み、通訳になりたいとか、CAになりたいとか、そういう道もあったんだろう。でも残念ながらそういう人生は私には訪れなかったし考えもしなかった。私が学生時代に英語を活かした記憶があるのは、バンドで洋楽を歌っていたことくらい。そういう音楽の英語ならば、ノートにびっちり歌詞を書いて、発音なんかをまねたりするのは熱心だったんだけど、学校の英語の勉強となるとダメだったねぇ。
そんなわけで(ってどんな訳だよ!って感じだけど)、16歳の夏、ある出来事をきっかけに、進学校にいながら大学進学をやめると高校の担任に宣言して、海外に行く準備を始めたのでありました。え、親? あのときは私が何を考えてるのか何にも知らなかったんじゃないかな。ま、義務教育終わってるし、いいでしょ、くらいの感覚。今思えばただのロクデナシで、そんでもって今でもロクデナシは続いてるんだけど、完全放任主義の親が育てたんだからこんなものだよね。
本当はね、はじめはアメリカに行きたかったんだぁ。田舎者だから、外国っていえばアメリカじゃん。
それでグレイハウンドの時刻表とか買ってきたりして、横断計画を夜な夜な練ってみたり、比較的授業料の安いコミュニティカレッジに入れる方法とか調べたりしたんだけど、ずいぶんたくさんのお金かかるんだよね。
そんな時、本屋で目にとまったのがワーキングホリデーのガイドブック。これは衝撃でしたよ。だって、働けるんだよ、外国で。当時はカナダ、ニュージーランド、オーストラリアしかなくて、寒いのは嫌で、大きい方がいい、っていう理由でオーストラリアにしたんだよね。その頃、カンガルーとコアラくらいしか、オーストラリアの知識無かったんじゃないかな、私。
ま、ガイコクに行けさえすれば、結局どこでも良かったんだ。
>>続く
]]>
10代でいわゆるワーホリメーカーとして日本を飛び出し、その流れでなんとなくバックパッカーとして旅した国々はだいたい40カ国くらい。あ、でもね、ヨーロッパとかアジアとかの国境を越えるのなんて、東京から田舎に帰省するみたいなもんで、それこそあっという間だから、そんなにたいしたことじゃあないんですが、でもでも、世界のあちこちに友達いるんだぜ。いいでしょ〜!
と自慢してみたものの、この頃はちょっと、働き盛りでお仕事も忙しいし、やっぱり日本経済支える歯車の目に見えないくらいのネジくらいにはなんなくちゃいけないし、なんて言いながらなんだかんだの東京人生に埋もれてしまい、旅にでるのは2年に1度くらい。もう「女子」とも「現役バックパッカー」とも呼べないし、でもこの社会において中年女性として立派なオトナであるかと言えば、ま、これが困ったものでして、元ハードバックパッカーとしての宿命、自分の人生は自分で開拓しなくちゃいけないのが、この愛すべき我が国における、ザ・ニッポン社会の現状。
そんな訳で、最近流行つつあるらしいカワイイバックパッカーになりたいわ、っていう本当に可愛い女子たちに、参考になるノウハウってのは、まったくございません。あらかじめご了承くださいね。
でも懐かしい青春のバックパッカー時代のことなら、語れますぜ。
青春っていうのは素晴らしく良いもので、やっぱり10代には10代の青春、20代には20代の青春っていうのがいつのどんな時代にもあるんだな、というのが、バックパッカーやりつつこの人生で学んだことのひとつでして。
だからこんな私でも、例えばインドで宿のオヤジが鍵を開けて夜這いをかけてきたらどうしたらいいのか?とか、そういうことなら経験談から伝授できるし、女ひとりで旅に出ようっていうんなら役に立つと思うんだよね。
でもそもそも、私って、どうしてバックパッカーになったんだろう?
純粋で、気が弱くて、人見知りな私。バックパッカーなんて全然違う人種のすることじゃん。
実をいうと、なりたくてなったわけでもなく、なんとなくなっちゃった、っていうのが本当のところで、バックパッカーになるにはどうしたらいいか!なんていう話、正直、私、ドヤ顔して語れません〜。
でもでも、きっかけみたいなのはあるんですよ。
続く>>
]]>時に、なんてシュールなんだろう、とふと立ち止まり、景色を見渡して思う。でもこれが現実。
もしかしたら明日目が覚めたら全部夢だった。
なーんてことがあるかも、としばらく前は思ったりもしたけど、もうそういうこともなくなった。
東京の都会に住んでいるわたしは、徒歩15分圏内で必要以上のことはできてしまう。
この期間でここから抜け出したのは月に数回。
そんな中、今通っている大学の仲間との会話がきっかけで、
自由になったら、もちろん旅に出たい。
でも旅どころか、山にだっていけない状況が続き。
仕方ないので、写真を元に気持ちの旅に出ました。
思考はいつでも旅立てるということを忘れかけておりました。
2001年、インドのラダックに行った時の写真。
当時関わっていた、バックパッカー向けの雑誌の編プロからもらったリバーサルフィルムで撮ったもの。
標高の高い場所にある、とても平和で、のんびりな村。
今でもこんな風にご飯を食べているのかな?
コロナの影響はどうなんだろう?
と思って、調べてみたら、風の旅行社のこんなブログを見つけました。
ーーー(一部引用)ーーー
今現在のラダックは、一昔前の時代が戻ってきたかのようなノスタルジーあふれた雰囲気に包まれています。急き立てるものは何もなく、車、バス、トラックをはじめとする交通車両もみかけません。誰もがみんな村に戻って農業をしていて、小麦、大麦、じゃかいも、その他の野菜を作っています。今年は観光客や(訳者注、以下かっこ内は同:国境警備で多数ラダック近郊に駐屯する)軍関係者のためではなく、自給自足のため、ラダック外部に頼らずとも暮らしていくためです。今回の件で我々(ラダック人も)大きな教訓を学んでいます。
ーーー(引用終了)ーーー
https://www.afpbb.com/articles/-/3260680
エルサレムを拠点に、ほぼ毎日イスラエルとパレスチナを行ったり来たりしていました。
嘆きの壁ではユダヤの人々
ヘブロン、こちらはモスク
ベツレヘム、キリスト生誕の地で
丘の上の小さな教会
ベツレヘムの市場では活気ある生活が
羊も
桜も
爆撃された部屋は取り残されて
壁は高くて
人々は働いて
海岸に暮らして神を思う人
今日もみなさんが平和でありますように。
]]>
「3日間外国人をホームステイで迎えるんだけど、すでに京都などの素晴らしい観光地には行ってしまってるから、どこに連れていってあげていいか迷ってるんです」
その人のお住いは逗子で、鎌倉とかかなぁとおっしゃっていましたが、私は三崎港などの港町はどうですか?とおすすめしました。
京都などの主要な観光地も素敵ですが、外国に行って地元の人に漁港を案内してもらって、マグロをお腹いっぱい食べられたらきっと楽しいですよね。日本の港町は、干物が干してあったりする風景が美しいし、そこで暮らす人たちが作る街の空気も全然違うものだし。
日常生活を送っていると、あまりに「あたりまえ」と思っている景色や風景。
でも旅人目線になると違う感想になる。これが不思議。
人の心は新しい景色に触れたり感動したりすることで、年を重ねても生き生きとするものだそうです。
私の場合にはカメラを持って歩くだけで、見える景色が変わります。遠くに行けなくても、日常が旅のように思えたら楽しいんですが、時間に追われて、ああもう今年も終わりかぁとなってしまうんですね。。
そんなことを考えつつ、バックパッカーとしては、激変する世界の中で未だその土地の文化が色濃く残る場所に惹かれるのですが、日本の地域おこし的な観光政策も均一的なものでなくて、その土地のもつ生活や自然を活かしたものであってほしいと願うのでした。海も山も綺麗で、ご飯も美味しくて、田舎までインフラ整ってて、恵まれているんだから。
]]>計画が立てられないノープランバックパッカーだった私は、とにかくインドに行くっていうこと以外はほとんど決めず、パスポートとフィルムをバックパックに詰めて飛行機に乗ってデリーに。
最近カシミールのニュースをよく見ます。インドとパキスタンの問題は当時から変わらないけれど、緊迫度が増しているようです
紙焼きの写真はいくらか発見できたけど、当時の日記は整理のつかない山の中に埋まっているので、頼りない記憶で旅の思い出を書いてみます。(記憶違い、事実違いがあるかもしれませんが、旅日記ということでご容赦)
カシミールに行くことになったのは、たまたまデリーで知り合ったインド人がカシミール出身だったから。カシミールという場所の美しさの話を聞き、どこに行くか決めていなかった私はじゃあ行ってみようと。
世界情勢や国際関係など、いまだに疎いんだけど、当時は今の1000倍何も知らなかった私。行くと決めてから、カシミールってちょっとやばいところ、っていうことを知った。当時も確か、首脳会談が行われるとかで、その結果次第では、パキスタンから銃撃されるかも、なんていう話が飛び交っていた。
けどなんか大丈夫そう、っていうので、バスでひとりカシミールへ向かう。
そしてカシミールはといえば。
とっても美しい場所でした。
朝の水上マーケット。
蓮が延々と咲き乱れる美しい湖。
こんな感じに蓮の花。
ボートを止めると、湖面は鏡のようになって、あたりはシーンと静まります。
ボートハウスに暮らし、水辺で洗濯。こんな日々の営み。
ボートハウスでお世話になってました。
ここのご家族にはあちこち連れて行ってもらったな。
カシミール滞在中に思っていたこと、あったこと。
やはりライフルを持った軍人が街に多いなぁと。
そして、一度、交渉ごとに駆り出されたことがありました。
利害関係のない日本人という第3者に立ち会って欲しいと。ここは日記を見つけたら、どんな状況だったのか詳しく書いているかもですが、とにかく軍人さんと街の人と、何かのお話の立会い。
あれは役に立ったのだろうか?
と今になって思う。
私にとっては、カシミールはとても美しく幻想的な場所。
問題が解決して平和になって、友人たちに訪れて欲しい場所。
でもやっぱりよく分かっていないな私。もう少し、カシミール問題についてちゃんと勉強しなくちゃいけないですね。
カシミールを後にした私は、その後ラダックの方面に向かい、ネパールやバングラも転々としてインドに戻った。
インドに戻ったのち、コルカタからヴァラナシに向かう夜行列車に乗っている時、ニューヨークでは、アメリカン航空11便とユナイテッド航空175便がワールドトレードセンターに突入した。
砂漠の向こう側、西に50キロ弱も行けば多くの問題を抱えているパレスチナ自治区のガザがある。でも今バスが走っているこの場所は、私が感じる限りにおいてはすごく平和で治安もいい。1時間弱走った先でドンパチやっている感じはない。
今回のイスラエル・パレスチナ旅行は全日程10日ほどで、この時はもう終盤。南下する前の1週間はエルサレムを拠点にし、パレスチナの街などを日帰りで訪れたりしていた。
私が旅行をしたこのころは、イスラエルの国会がヨルダン川西岸地区に無許可で建てられたユダヤ人入植地に対して建設を合法化する法案を可決。トランプ大統領がイスラエルの首相と会談予定という少し前。アメリカ大使館をテルアビブからエルサレムにお引越しようかしら、さらには入植地の問題に関し、これまでオバマさんが出していた見解とは違う声明を発表した、と話題になっていた。
そんな中、私もこの短い間にいろいろ考えたし、勉強した。
前回の旅はイランだった。もう数年前になる。イランの次にイスラエルに行くというのは、あらゆる場所のパスポートチェックで不審がられるという、なかなか面白い体験だった。同時に中東の問題について身近に感じることができる機会にもなった。
正直なところ、中東の問題とか、パレスチナ問題とか、ぼんやりしか知らない。なんか危なくてヤバい場所なんだよね、って。高校の時には世界史をとっていたのに、カタカナとか年号とか全然覚えられず、そもそも授業をサボってたってのもあり、当然学んでいるはずの中東問題、そこまでに至る歴史なんかほとんど記憶にない。
イギリスの三枚舌外交っていうのも、なんかやらかしたんだよね、くらい。今回現地を旅して、あらためて少しずつだけど勉強してみて、今、日常生活の受け身で手に入る情報から表面で目に見えている問題だけに気を取られていると、大きく間違えるぞ、って怖くなった。
きっと平均的な日本人は私のように、いろいろ複雑で大変な場所というくらいの認識でいるのでは、と思うけど、私が際立って知らないということもあるのかな。レベルが低くて申し訳ないけれど、私がバックパックを背負ってどこかに行く理由でもある。学校の歴史には興味が持てないけれど、現地に行っていろんな人から話を聞いて、そこでフムフムと自分なりに思うところからスタートすることで、やっと興味がもてる。
そこで出会うひとりひとりから話を聞くと、大きな歴史の流れやこの時代と日常がつながっていることが分かる。まあ人間がやっていることだから、当然と言えば当然だけど、特に、イスラエル、パレスチナでは、どちらの地域でもこのことを深く考える。
バスの中で今回の旅で初めてiPodを取り出した。小さな画面をスクロールして、何を聞こうか考えて、結局、今までの人生で何百回も聞いた、ベッド・ミドラーのベストを選ぶ。
窓からの景色はひたすら広大な砂漠。イスラエルは四国と同じくらいの面積だそうだけど、日本人である私が考える「人が住みやすそうな土地」の広さは、このイスラエルでは少ない気がする。砂漠で暮らすって考えただけでも大変そうだ。それでもここに暮らす人たちにとって遥か昔からこの土地は大切な場所。
そんな砂漠の途中、周囲を見渡しても何もない場所にバス停が時々あって、兵隊さんたちがポツリポツリとバスを降りる。彼らはここで何をするんだろう?
遠くからみると この世界は青と緑
銃も爆弾も病気も飢えもない
遠くからみると この世界はハーモニーに包まれている
遠くからみると 戦争中でもあなたが友達に見えるし
この戦争が何の為なのか説明できない
From a distance
この時代の日本人として旅をしている私は、この歌を聞いて人間のこの社会がそうあってくれたなら、と胸をキュンとさせることが出来る。ユダヤ人と話していても、パレスチナ人と話していても、誰と話していても、ある例外をのぞけば多くの人たちは親切でフレンドリーだ。私は日本から来た遠くの人。きれいごとも言える。
でもこの土地に足をつけて日々生活をしている人たち、日常において、隣に座っている人が銃を身につけているこの場所で、彼らはほんの少しだけジャンプできるかもしれないけれど、そこでのハーモニーは不安を奏でている。
エルサレムの安宿のドミトリーで同室になったカナダ人がいた。もう還暦を過ぎた銀髪の美しい初老の女性。彼女は大学時代をエルサレムで過ごしたそうで、当時のエルサレムの様子をいろいろ語ってくれた。
「あの頃の女性たちは、それぞれの民族衣装を身に纏い、自分の宗教に誇りを持ち、他宗教に対しても尊敬の念を持ち、堂々として格好良かった。パレスチナの女性が刺繍を施した民族衣装を着て胸を張って歩いている姿に、自分もあんな風になりたいと思ったのよ」
タブレットでパレスチナの女性の民族衣装を検索して、こんな感じよ、と見せてくれる。恰幅のいい女性が背筋をピンとのばして写真に写っている。
「今の人たちは、見た目には信仰心は少なくなったように見えるけれど、逆に信心深くなり、自分の宗教の中に閉じこもっていっているようにみえる。一体あの自信に満ちあふれた美しい女性たちはどこにいってしまったんだろう?」
彼女の話を聞いて、その時代のエルサレムを見てみたかった、と心から思った。
エイラット行きのバスが休憩の為に停車。砂漠のオアシスとも言えるその場所では、マクドナルドが営業をしていた。若き美しい兵隊さんたちはベンチに座ってスマホを取り出し、熱心に画面を眺めていた。軍服を着てライフルを持っている以外は、日本でもどこにでもある光景なんだけどな。
各自休憩中、乗客の半数以上は徴兵中の若者たち。彼らはバス代が安いそう
このあと私は無事にエイラットに到着し、人生初めての紅海を見た。そしてやることがなかったのでなんとなくエジプトとの国境を見に行った。帰り道、かつて新宿の路上で雑貨を売っていたイスラエル人ヒッピーのテントで、彼の仲間と一緒にビールをごちそうになって夕日を眺めることになった。空が赤くグラデーションになると、紅海の向こう側のヨルダンとサウジアラビアの夜景が美しく輝きはじめる。
このフェンスの向こう側はエジプト。ネコは国境越えにパスポートはいらない
「この美しい景色があって、神様がいれば、僕はもう他に何にもいらない」
ヒッピーの彼は言った。
「仕事を見つけてちゃんと生活をしろよ」
仲間の一人が言った。
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